天下りの闘病生活 霞ヶ関からのお引越し

20代の私、まさかの胃がん。

その日以降、食べるもの全ての味が分からなくなった。そして、胸やけがするようになってきた。

そんなことが、1週間も続いた。

その日以来、朝食や昼食など、ヨーグルトやお粥などしか食べていなかった。食べていなかったというより、食べられなかったというのが正しい表現かもしれない。さらに一日1食程度だ。大食いで1日5食は食べたいという私だったが全然しないのだ。落ち着かないので病院に行って検査を受けることにした。

病院といっても近所の内科医だ。その時は、軽い疲労という診察を受けて、胃腸薬をもらって帰ってきた。

気持ちだけが一安心したので翌日には、久しぶりに焼鳥屋へ行ったのだった。しばらく顔を出さなかったからマスターも心配していたようだった。マスターが焼き鳥を焼いてくれている間、これまでの調子について少し話をした。そして、焼き鳥が出てきて食べたのだった。
しかし、ようやく食べられたという感覚はなかった。食べた瞬間、あの時の胸やけがよみがえってきてしまったのだった。自信がなかったから、1本だけしか焼いてもらわなかったが、その1本を食べきることが出来ずに、店を後にした。

嫌な予感がしたので翌日は、少し遠いけど規模が大きい総合病院に行くことにした。いわゆる、たらい回しで待っているだけで病気になるような病院だ。その日は、会社を休んで朝から長い列に並んでいろんな検査を受けた。いろいろと検査をしてもらった。

医師から、レントゲン検査で気になる箇所があるとかで、再度来てほしいといわれた。そして、胃カメラを飲んでほしいということも言われた。気持ちは絶望的だった。何の前触れもなく、体の調子が変わっていく。病気とはこんなものということが出来ても、実際なると受け入れることが出来ないものだ。 さて、胃カメラの検査日がきた。よくわからないバリウムを飲んで、変なパイプを突っ込まれて不快な気分だった。

味が感じなくても、不快なことは感じるというのはやっかいなことだ。

そして検査後、医師が結果を告げた。
ステージ3の胃がんだった。20代の私でも、がんになるということを今日初めて知ったのだった。ショックでどうしよもなかったが、事実は受け入れた。

ただ、オペにより腫瘍を完全に切除可能であることも教えてくれた。
その時の医師は、「私、失敗しないので」という決め台詞でその時の診察を終えた。その言葉を信じて、さっそく入院することにした。 入院生活は退屈なものだ。寝ることが仕事といっても過言ではない。そして、ベッドが固く寝心地が悪かった。オペまでは絶食ということになり、体には点滴のチューブがつながれた。これから毎日、点滴と日々の行動を共にする。総合病院にもなると、コンビニからレストランまで一通りのものがそろっている。

ほとんど絶縁状態であった、両親や親せき、友人がちらほらと見舞いに来てくれた。そして、焼鳥屋のマスターも顔だけ出してくれた。

オペの当日が来た。
看護師が麻酔をかけてくれた後は記憶がない。ただ、手術は無事に終わった。悪性の腫瘍は、完全に切除できた。「私、失敗しないので」という医師は、やはり本当の医師だと思う。医療訴訟なんて、余計なことをする人がいるから、医師が委縮してしまうのだとその時は思った。 手術後、目が覚めたときは、なんだかよく分からなかった。最初は体が重たいという感覚だけが先行した。

そして、今どこにいるのか考えた。
少しずつ、体を壊して手術したことを思い出したのだった。現実が見えてきたとき、生きていることの喜びをかみしめた。

大事な家族を亡くした時、仕事で大変な時、彼女に振られた時、どん底に落ちたときは、いつも生きているのが苦痛だった。周りの友達や同僚には「毎月5月病」なんて笑って誤魔化していた。そして、電車に向かって飛び込もうとしたことが何回もあった。だけど、そんなことはできなかった。だから、オペの後、生きて目が覚めたということに、感慨深い喜びを感じることが出来たのだった。経過は良好だった。

1週間がたったころ、回復したからと、病室に戻ることが出来た。車いすから自分で歩く練習も十長打。一歩一歩、回復している。生きていく喜びを感じる一方で、仕事を全くする気がなくなった。

そうこうしているうちに、医師から退院に向けた話も出てきた。順調に回復し、自宅に帰れる旨が伝えられた。しかし、胃を切除したため、食事の量は激減した。術後は食べることが仕事といっても、全く食べられないのだ。もちろん病気の時と間隔は違う。食べられるけど、食べられる総量が今までと違うのだ。そのため、大幅な減量となってしまった。それが、仕事をする気にならない理由なのかもしれない。

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